2011年02月01日

前田敦子 高画質画像・写真・壁紙446〜450

前田敦子446 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子447 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子448 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子449 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子450 高画質画像・写真・壁紙
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[AKB48時代]
{2007年}
4月、将来の希望は女優で、映画『あしたの私のつくり方』で夢でもあった女優業の活動も開始。準主役の大抜擢だった。その年の第81回キネマ旬報新人女優賞候補にもノミネートされている。実は「すっごく嫌でした。怖くて、自信がなさ過ぎて。実際、現場に入っても『早くAKBに帰りたい』とか、そんな事ばかり言ってました」。夢の女優業だったが、あまりにもどうすればいいかのわからず、それが「嫌だ」という感情に繋がってしまった。
7月、大島優子、小野恵令奈と共に太田プロダクションに移籍。
10月、雑誌『ビッグコミックスピリッツ』で初の単独表紙を飾る。
10月16日、フジテレビ系「スワンの馬鹿!〜小遣い3万円の恋〜」にて、初の連ドラ出演。
12月、チームAとKのメンバーをシャッフルするという「ひまわり組」公演のスタート。「みんな一番自分のチームが大好きで、台風が来たみたいに荒れました。嫌だ嫌だ嫌だってみんなで泣いて。でもなんだかんだでレッスンが始まっちゃうと、すんなり(笑)」
12月、AKB48として『NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。


前田敦子 高画質画像・写真・壁紙441〜445

前田敦子441 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子442 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子443 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子444 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子445 高画質画像・写真・壁紙
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[AKB48時代]
{2006年}
2月1日、インディーズではあるが『桜の花びらたち』でCDデビュー。
2月8日、初の満員御礼を達成。「初めて満員御礼になって、席が埋め尽くされた時は、すごく嬉しかったです」。
2月下旬、すぐに追加メンバー(2期生)のオーディションが開始される。「オーディションをやるよって言うのを聞いて、すごい嫌だったんですよ。ここまで頑張ってきたのに、なんで増えるんだろうって。もともと増えるコンセプトだったけど、不安で、私たちの居場所が無くなるんじゃないかと思って」
2月26日、19人が合格し、新たなAKBのメンバーとなる。「『先輩たちに負けないように、頑張ります!』ってすっごい強い意志を持っている子たちだったんで、そこでみんなすごい刺激を受けたんだと思います。私も負けてられないって。最初はチームAとチームKはライバルでした」
4月15日、チームA2nd「会いたかった」公演が開始。これは前回の1stに比べ、よりメンバーのポジションに格差があるような作りになっている。それはメンバー自体に格差が出来はじめたということ。チームAのメンバーも、このセットリストが一番辛く、2nd公演の事は思い出したくないと言っている。
前田はこの公演の『渚のCHERRY』という曲で、初めてソロを担当する事になった(正確には4人のユニット曲だが、実際にはソロとバックダンサー3人であり、明確な差がある。衣装の色も違う)。これが決まった時には、「一人だけ目立つのはイヤ」「やりたくない」と言って大泣きした。それは同年代だった、峯岸みなみや平嶋夏海が自分のバックダンサーを務める事になったからで、前田が直接言われた訳ではないが、彼女たちも負けず嫌いな性格で、「2人が嫌がっている」という話が前田の耳にも届いていたからだった。
8月11日、2ndの千秋楽。そこで秋元は、メンバーにお互い思っていたことをすべて言えと命じた。あるメンバーはファンの前で「辞めようと思った」と言い、あるメンバーは「あっちゃんの後ろは嫌でした」と言う。それに対し前田も「『渚のCHERRY』はやりたくなかったです」とセンターを任される重圧を語った。メンバーはみんな号泣しながら思いの丈をぶちまけた。前田「スッキリしたというか。改めてファンの人たちにも自分たちの気持ちを分かってもらえたというか」。
この時は観客も一緒になって号泣したとも伝えられているが、ある雑誌にその公演に参加していたファンはこう書いている。「そんなはずないでしょ。もちろん自分の推しメンが泣きながら話している時はウルウルしましたけど、客はチームAの他のメンバーには興味がない訳だから、どうしてお金を払ってまで演者の愚痴を延々と聞かされなくちゃいけないのかと。ものすごく微妙なムードが劇場全体を包み込んでいましたね。いたたまれない感じっていうのかな。早く劇場の外に出たかったというのが本音ですよ」。Aのメンバーにとっては非常に辛い公演となったが、この「会いたかった」はAKBの代表曲とも言える曲が入っており、今ではメンバー間に格差があるというのはAKBでは常識なので、後に出来たチームBやSKE48チームKIIなどでも使用されているという人気のセットリストとなっている。
9月29日、チームAとチームKの組替え発表を行うと告知される(「ばら組」「ゆり組」構想)。不安はまったくなく、「新しい気持ちになろっかみたいな(笑)。また違う自分になれるかなみたいな」と非常にポジティブ。
10月、『会いたかった』でメジャーデビュー。「ビックリはしなかったです。CDを出すっていうのも、どういう事だかよく分かっていなかったので」

前田敦子 高画質画像・写真・壁紙436〜440

前田敦子436 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子437 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子438 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子439 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子440 高画質画像・写真・壁紙
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[幼少期]
幼稚園の時に『ポンキッキ』や『天才テレビくん』などのテレビを見ていて、同世代の子供たちが出ていると「楽しそうだな」とは思った。うらやましいとも思ったが、「自分も出たい」とかそういう事を言えるような子供ではなかった。
中学生の頃、もともと目立つ事が苦手で、授業中先生に指される事さえ怖かったという、どこにでもいる内気な普通の女の子。それがいつしか「女優になりたい」という夢を持つようになった。

[デビュー前]
{2005年}
母と2人でいた時に「秋葉原48(AKB48)」というアイドルグループのオーディションのチラシを見つける。かなり怪しげなチラシだったが、懐かしのアイドル特集などで「おニャン子クラブ」は知っており、そのプロデューサーだった秋元康が載っていたので興味を持った。AKBの“それぞれの夢へと巣立っていく場所”というコンセプトに惹かれ、リアルなレッスン場のつもりで、このグループに入ってみたいと思ったが、母親にも「オーディションを受けたい」と言える子でもなかった。そんな娘の気持ちを察してくれたらしく、母が「やってみれば?」と言ってくれた。当然これが人生で初めて受けたオーディションで、秋葉原に来たのはAKBになってから。テレビで知っていた程度の知識しかなく、「行きたいとも思っていなかった(笑)」とか。
10月、1次、2次と合格し、最終審査日。当日の印象は、年上の人(小嶋陽菜のことらしい)や可愛い人がいて、すごい自分が場違いな感じがした。すでに女の子同士のグループなども出来ていたが、自分は誰とも喋らなかった。まずダンス審査で全然踊れず、それを引きずってしまい歌唱審査もダメだった。絶対に落ちたと思ったら、自分の番号が呼ばれた。母親が喜んでいる姿を見て、ほっとした。
11月、デビューに向けてレッスンが開始。振付師は、モーニング娘などの振付も担当した夏まゆみ。かなりのスパルタで、1回無断欠席した子はクビにされ、レッスンの厳しさに耐えられず何人かは自主的に辞退した。1期生は24人が合格したが、デビューまで残ったのは20人だった。前田が耐えられたのは、『桜の花びらたち』の立ち位置を決めるとき、この曲は5人しかマイクがもらえないが、自分が貰えたからだった。嬉しさと、他人には負けたくないという事でがんばれた。同じく『スカート、ひらり』というユニット曲のメンバーにも選ばれた。最初に前田を推したのは秋元康ではなく、夏まゆみだった。
12月8日、AKB48劇場のグランドオープンで劇場公演デビュー。初日は70人近くお客さんがいたが、これには関係者も含まれており実際は7人。2日目、3日目、進んでいくと、お客さんの数は数人という日もあった(メンバーよりも少ない)。不安から、泣いたり、辞めたがるメンバーもいた。季節は冬だったが、寒空の下、メンバー自ら何度かビラ配りなどもし、客を増やそうと努力した。「なんで人気が出ないんだろう。これ以上人気が出なかったらみんなでやめちゃおうって話をしていました」。
当初は夏まゆみには評価されていたが、秋元からはそんなに評価は高くなかった。オーディションの時はほとんど眼中になかったと聞かされた。しかしその後、秋元にもそのスター性を見込まれ、AKB48の中心メンバーとして活動していく事になる。秋元はこう答えている。「AKB48は人数が多いため、顔と名前がわからないという声が多かったので、誰かをフィーチャーする必要がありました。前田敦子にはスター性があり、 AKB48を売り出してゆく中心においたのは事実です」

前田敦子 高画質画像・写真・壁紙431〜435

前田敦子431 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子432 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子433 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子434 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子435 高画質画像・写真・壁紙
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[人物]
憧れの芸能人は柴咲コウ。また、東方神起と福山雅治のファンでもある。福山には「センターが当たり前田の前田敦子」「微笑みの貴公子」とキャッチフレーズを付けられた。
家族構成は、両親と3歳上の姉の4人。
ペットとして、ミニチュア・シュナウザーの「ソルト」、トイプードル&マルチーズのミックスの「ハニー」、トイプードルの「ココア」、チワワの「アロマ」の四匹の犬と、デグーの「フランク」とモモンガの「バブル」とモルモットの「チェコ」を飼育している。
漫画は『ONE PIECE』を愛読している。
愛称は、主に「あっちゃん」であるが、AKB48メンバーの秋元才加や板野友美、篠田麻里子などからは「敦子」、『マジすか学園』で共演したなちゅ(SDN48)からは「あちゅ」、母親からは「あつ」と呼ばれている。
左利き。視力が悪く、仕事の日はコンタクトレンズ、オフの日は黒ぶちメガネを使用している。
父親の影響で大の読売ジャイアンツのファン。
食べることが大好きで、スタイル・顔からは想像できないほどの大食いであり、ロケ弁を4個平らげることもあるという。寿司は大好物だが、「ご飯を食べるのが面倒くさいから」という理由でネタのみ食べる。特に好む寿司ネタは貝類である。また、自身のブログにその日の朝食の写真を載せていることがあるが、一般的な朝食と比較すると豪華で、かつバランスの取れた朝食の写真が載せられている。朝食は大好きで、農林水産省「めざましごはん」のCMにも起用されているが、「朝ごはんをしっかり食べる人」というイメージがあることも起用の理由であるという。このCMに出演できたことを誇りに思っていると語っている。

前田敦子 高画質画像・写真・壁紙426〜430

前田敦子426 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子427 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子428 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子429 高画質画像・写真・壁紙
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前田敦子430 高画質画像・写真・壁紙
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[人物]
キャッチフレーズは無し。無い理由は「思い浮かばなかった」から。それから5年間経ってしまった。と最近は答えているが、本当は恥ずかしかったから。考えようとも思わなかった。
ニックネームは「あっちゃん」。これはAKBに入ってから付けられたものではなく、子供の頃からのあだ名。後輩からは「前田さん」と呼ばれる事が多い。たまに番組では「マエアツ」が使われる事もある。
AKB48&チームAのエース。これまでにすべてのシングル曲で選抜メンバーに選ばれており、ほとんどの曲でセンターポジションを務めることから、“絶対的エース”とも呼ばれる。
特にキャラクターはない。よく「何を考えているのか分からない」と言われる。本人によると、そういう時は本当に「何も考えていない」。MCなども特に何も考えずに出る。もっと積極的になろうと考えた事もあったが、「あっちゃんはそんな感じなので、それでいいよ」とメンバーやファンは思っており、前田も“これ”と言ったキャラクターは作っていない。「それを許してくれるファンの人と、メンバーには感謝してますね」
ダンスはあまり得意ではないらしく、「省エネダンス」と呼ばれたり、「松井珠理奈に負けてるよ」とか言われてしまっているとか。
よく「昔っぽい顔」と言われるという。
1cm×1cmの紙で折り鶴を作れる。本人曰く、「『桜の花びらたち』の紙吹雪の紙を、公演終了後、折ってみたらできたから」とのこと。
スポーツ全般が苦手。いわゆる運動音痴である。